第1章
香りの記憶とサロンの静けさ
ランバンの香水の匂いをかぐと、セラピストになりたての頃を思い出します。
若い頃から香りは好きだったけれど、この匂いには少しだけ緊張した空気が混ざっているのです。
サロンは静かだった。
やるもやらないも自分次第の場所。
覚悟を決めるときも、気持ちが沈み迷ったときも、いつも同じ窓辺のソファに座って考えていました。
この仕事を辞めたいと思ったことはありません。
ただ、稼ぐために演じる自分が嫌になる日はありました。
最後のお客様を見送ったあと、誰もいない部屋で「もう無理」と声に出したこともあります。
相手はいません。自分に向かって言っていた言葉でした。
頭の中では
「あなたなら出来る」と鼓舞する自分と
「あなたなんかに出来るわけがない」と卑下する自分が言い合っていました。
サロンに立つ時間が長くなるにつれて、自分の中で演じる役が増えていきました。
声の高さ、相槌の間の取り方まで相手に合わせるのが当たり前になっていました。
サロンにいるわたしは「セラピストSHINKA]で、外にいる「私」とは違っていました。
最初はそれを不自然だと感じていました。
合わせているのか、取り繕っているのか、
わからなくなる日もありました。
けれど、長く続けるうちに、気づいたのです。
お客様は技術だけを受けに来ているわけではありませんでした。
「安心できる場所を探して来ている人がいる。」
そう思うようになってからは、演じている感覚は薄れていきました。
役が増えたのではなく、対応できる自分の面が増えているだけでした。
いま、あの頃の心の声を思い出しても苦しくはありません。
人生の主役は自分だと、普通に思えるようになったからです。
メンズエステのセラピストとして十五年。
やっと「これでいい」と思えるところまで来れたのかもしれません。